デザインスタジオクセモノ

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私は常に慎重にTrue Loveを探している。最近 True Loveのリストにひとつ追加された。以下がそのリストである。

  • 締切 人にものを作らせる力

  • 自転車に乗る練習をしている子供の荷台を後ろから支える親の手、そしてその手をどこかで離すこと

  • モテたくて始めたギターをモテなくても続けていること

  • 全身で飛びついて再会を喜ぶ犬

  • 人がクソ野郎になることを全力で阻止すること

一番最後のものが最近見つかったものだ。

33歳になった。

33歳の抱負は「純愛の復権」「やったことないことから探す」の2本立てで行きます

トイレに座ると便座の方角が北とか南とかわかる。これは私が望まずして持っていた特殊能力だ。犬がウンコするときにぐるぐる回るのと同じものを感じていそうなので、妹がこの能力をウンチドッグコンパスと名付けてくれた。

人には誰だってこのレベルのしょうもない特殊能力がある。そう絵描きの友人に話すと、「私は絵師が絵柄でわかるよ。どんなに別ジャンルでアカウント転生しててもわかる」と言っていて、恐ろしかった。

最近自分を削るのを、覚悟を持ってやめた。

削ると仕事してる気になるけど、本当は削らないほうが結果的にいい仕事になると気づいたのだ。

何かに耐えていたほうが実は気が楽で、被害者ヅラできるし、被害者ヅラの仲間もできるし、何もできなくてもやった感がある。

でもやめた。耐えてもポイントがたまるわけでもないし、楽しくない。

楽しいことをしても良いと考えるのは多少恐ろしいではあるけれど、でも、楽しい方がいいよ。絶対に。

製作が行き詰まっている。そういうこともある。あきらめて外を歩く。知らない町は知らない式で構成されていて、空が近かったり遠かったりする。

歩いているとどうでもいいことを考えられる。今回はなぜ桃太郎の桃はどんぶらこと流れてくるのかを真剣に考えていた。当然ながら、本物の桃を流してもどんぶらこと音はしない。恣意的だ。だが一体誰の? 昔話は子供を寝かしつけるために話されるものだ、ということは親の恣意だ。だが、何のために? そこまで考えて気がついた。親は子供に笑ってほしかったんだ。自分の話でウケたいと思うことが、そう過ぎた願いとも思わない。ならば、自分の作るものも、芸人がネタをみがくように作ろう、と思った

おじさんは、自分がありのままでは愛されないと知っているので、人間にとっての普遍的な美徳、例えば甲斐性などを身につける。

そんなおじさんにとって、頂き女子りりちゃんは恐ろしい。甲斐性を狙い撃ちにしてくるからだ。おじさんが愛されるために身につけた力が強ければ強いほど対抗できない。どんな力も受け流す合気道の達人のようだ。何百万も持っていかれて、騙されてると察していても、おじさんはその甲斐性ゆえにりりちゃんを糾弾できないんだ。

そう解説すると、友人はとりいさんっておじさんよりおじさんに見えることがある、と笑った。

暑くてマジのマジで自炊への情熱を失っている。夜にのっそり起きては閉店間際のスーパーで値引きされた惣菜を買い食いして暮らしている。本当にダルい。

しかし私の心には幸福が渦巻いている。自炊にやる気がなくても、惣菜を買い放題な経済力があれば飢えないんだ。本当に嬉しい。

スチームデックを買うといいと人に勧められたので買おうとしたら売り切れだった。Lenovoから似たようなやつがLegion Goという名前で出ていたのでそれにした。めちゃくちゃゲームできて最高です。カスみたいなスピーカーだけど、画面めっちゃ綺麗だしコントローラー外せるしすごくいい。重いゲームつけるとゴーとか言ってあたたかい風も出てきます。かわいいね。

理不尽な仕事で未払いを喰らって揉めていた件が解決し、報酬が支払われることになった。微妙に困る大きさのまとまった額だ。うれしい。金が入ると何かに使おうと思う。きちんと働いて得たお金だし、泡銭みたいにはしたくない。

しかし困ってしまった。極貧生活をしていた頃は、金さえあればこんな食うや食わずの性格なんて抜け出して、アイパッドとか買うんだ、と思っていたのに、仕事が安定してきて生活が整ってくると、そこに付け足すものはそんなにいらない。アイパッドは1台で十分だし。

自分の見えている範囲の贅沢品、家とか家族とかFIREとかには遥かに届かないし、旅行行くにも自分の体力には限界があるのでほどほどでいい。いらないもの欲しがっても仕方ないしな。

自分に雇用を作る才覚はないことはこれまでの6年間の経営ではっきりしている。

かつて先輩経営者が「お金は使う方が難しい」と言っていて、当時の私は「そんなわけあるか、こんなに苦労しないと手に入らない金を、使う方が難しいだなんて? 自分なら、絶対最高の使い方をしてみせるのにな」と腹を空かせながら傲慢をやっていた。今ならその先輩経営者の言ってたことも少しわかる。お金を「まともなこと」に使うのは本当に難しい。見たことない額を渡されてると人はかなりの確率で変になる。渡す相手と渡し方は本当に大事なのだ。泡銭にされたら困る。自分の人生を削って得たものだ。よく考えよう。

良い作り手であるためには、自作の良い解説者である必要があるのだろうか。

人から聞いた話だが、かつて日本のあるクリエイターが、その成果からヨーロッパのアートイベントに呼ばれ、現地の人から「どうしてこんなものを思いついたのですか?」と聞かれ、「締め切りがヤバくて」と謙遜したことがヨーロッパ人をひどく失望させたらしい。

ヨーロッパでは、アートとは何か新しいことを考え抜いて作られるものであり、ノリとか締め切りとかに押されてニュルと出るものとは違うらしい。

そうなのかな、と思う。それだと締め切りに追われて連載してたドストエフスキーとか、ジャンプとかの漫画もアートではないということになるんだけど。

アートだからいいとか悪いとかではないとは思うけれど、変なものを欲しがるのだなと思う。

雑誌のロッキンオンジャパンとかを読むと、バンドのボーカルにインタビューとかしている。私は喋り慣れていなさそうな人がなんか答えたり困ったりするのを読むのが結構好きだ。

そういうのを見ていると、結局誰かの興味を引くほどにいいものを作ってしまうと、人が言葉を求めてきてしまうのかなと思う。そしたら、何も考えてないよりは何か考えを用意しておいた方がかっこいいだろうか。

喋るの下手でもいいもの作る、はあるけど、いいものができたら絶対喋らされてしまうということも、あるんだな。

小さい頃、一度だけ幽霊を見た。

自宅のリビングから寝室への廊下を振り返った時、ガイコツが寝室の入り口に立って手を振っていたのだ。

私は母に「お化けいた」と泣きついて、母は「どんなんやった?」と聞いた。私は「手を振ってたで」と言うと、母は洗濯物を畳む作業に戻り、「じゃあ大丈夫や」と言った。

敵意のない幽霊だと判断したんだろう。寝室に行くとガイコツは居なかった。それ以来お化けを見たことはまだない。

植物が好きで、家でたくさん栽培している。

たまに霧吹きで水をかけたり、乾いたら水をやる。植物は環境が良ければどんどん育つ。体感的には水しかあげてないのにどんどん大きくなるので、少し怖くなる。花まで咲いた日にはもう大変だ。こいつらは何を考えているんだ、と思う。

人間の理屈からは計り知れない、勝手に育つ強い生き物だなあ。

人に物心のついた時期を訊ねると面白い。3歳からついていたと言う人もいる。自分はかなり遅いほうだ。中一まであらゆることの意味をあまりよくわかっていなかったし、名探偵コナンのアニメを見ていた記憶はあるけれど、なぜコナンたちが証拠と呼ばれる何かを必要としてたかはわからなかったし、ゲームのエンディングを自力で見たのもそれ以降だ。人より虫に近かったと思う。小学生のはっきりとした記憶としてあるのは、帰り道の柵に傘をカンカンぶつけて歩いたことに、公園の長い草についていた麦みたいな穂をむしっていたこと、曇りの日は全て土曜日だと思っていたこと。自分に物心がつくまえの方が不思議と明るい。

13歳から24歳ぐらいまでは、自分に意識が発生した成長痛でずっと苦しんでいた気もする。

3歳から物心があった人は、苦しくなかったのかな、と勝手に思う。次の生が存在したとして(全くしてほしくはない)、どうか意識なんてない生き物であってほしいと思う。虫にも記憶や痛覚がある(本当にあってほしくないけど、あると思う)とすると、生命に向ける態度として慈悲以外はマジでない、まで思うとかなり仏教になってくる。

今思い出すと、物心の発生と性欲の自覚はほぼ同時だった気もする。余計に哀しい。


友達が、経営者が読むような本を教えてほしいと言うので、『ジョブ理論』『Hello World』とかの本を紹介したのだけど、自分を経営者にしたものは一体なんだったかを思い出すと、先輩経営者がやっていたフェルミ推定を真似し始めてからだったなと思う。

フェルミ推定とは、例えばあるゲームが200万本売れたとニュースを見たとする。200万はただの数字抱けれど、経営者ならそのゲームの値段を見にいく。8000円のゲームだったら200万×8000円で、160億円売れたのかーとか言う。円にするといろんなことがわかる。160億あれば、年収800万の人を1年なら2000人、10年でも200人養える。大変なことだ。逆に、年収800万の人を100人集めて5年も開発してたら40億もかかる。8000円のゲームが50万本売れてようやくトントンだ。実際入ってくる額はもっと少ないだろうから、制作チームの本当の笑顔が見られるのは100万本とか売れてからだろう。

価値を物差しにして、損得を勘定していくわけだ。シカゴの調律師の人数を見積もるだけではフェルミ推定は実用的ではない。当たり前みたいな話だけれど、これを知らない頃の自分もいた。

日記を書いているけど、この日記は広義のゴミだ。情報は乱雑にそこにあるだけではゴミで、使い物にするには分別とかしてうまいこと処理しないといけない。意味をなさないと言ってもいいか。

ゴミのことは好きだし、この日記はピアニストの日々の練習みたいな気持ちで書いているけど、そろそろ意味を考えたくなってきた。詳しい人に聞くか。

今年も家にハエトリグモがきた。クモは人に慣れるらしい。綿棒に砂糖水を染み込ませたものを見せると、飛び乗ってくると言う。早速やってみようとしたけど、キッチンにパルスイートしかない。仕方なくそれをクモに見せてみたけど、普通に無視された。

最近自分がバカみたいな値付けで請け負ってしまった仕事があったことに気づいた。親切にされたわけだよ、お得すぎたんだから。キレそうだけどそれはそれとして、安すぎてたことに気づいたのは人と話してからだ。人と話さなければ一生気づかなかったのかなと思うと、突然記憶の中のマルクスが出てきて、「万国の労働者よ、団結せよ」とか言い出す。団結って、なんか肩組んだりすることかと思ってたけど、違うんだ。ただ、契約とかする前に同業者と話せばよかったんだよ。

人に頼ろうとすると難しい。けど、自分の情けないところを見せて人のかっこいいところを見よう!と思うとちょっと上手くいく気がする。

嫌いなものリスト

・共感で権威にすり寄る奴
・そんなことないよって言われるためになされる自虐
・被害者面

好きなものリスト

・音楽
・風景
・手を動かしてよく考えている人間

プログラマーは一般的に性格が悪いとされる。性格の悪い人の比率は人間全体とあまり変わらないと思うけれど、それにしてもプログラマーでない人に性格が悪いと思われがちなものの考え方をしているかもしれないと思う。

プログラマーは、計算機にルールを教えて動かす。計算機はめちゃくちゃ大量の足し算とかができる。人力手計算ではダルい3D空間の光のシミュレーションとかも、現代なら一瞬で計算できてしまうのがコンピュータ技術で、その力にアクセスするには、計算手順を機械にわかる言葉で記述すれば良い。

泥臭く一筆一筆やってる絵描きからしたら、プログラマーに絵描きマシン作っちゃった!ブーン!って毎秒絵っぽいものを出されたら嫌だろう。絵描きとAI画像生成屋の対立より前にも、コンピュータ使って楽するやつって嫌がられてたと思うよ。文化の違いなのでもうこれは仕方ない。画像生成自体は倫理的な問題とか色々あるかもしれないけど、そもそも手を動かしてる人って楽してそうな奴のこと嫌いなんじゃない?

ウルトラマッシュルームのPVが好評みたいだ。万が一滑ったらサクッと作り切るモードになろうとこっそり考えていたけど、そうならなくてよかった。安心しました。ちゃんと作ります。

ゲームのプログラミングは自分でする。思いつきと実装する人が同じだと、素早く検証できて良い。しかし困るのは、細かく直しているうちに何をしたくて作っていたのか忘れてしまうことだ。

最初、人々が来て勝手に会話していたら面白いだろうと思って作ったプロトタイプは、作った後、お互いに相槌を打つと面白いかと思い、足した。話聞いてる感が出なかったので、状態を足してより話聞いてる感が出るように…とかやっているうちに、ついにプレイヤーの操作とは関係なく会話が成立する謎のシミュレーションができた。特に面白くもない。大失敗だ。捨てる。

作ったもの、捨ててばかりだ。でも、捨てられないよりよほどいいと思う。毎日練習するピアニストだって全てを録音してるわけじゃないしな。

自分は世間的には一発屋(または一発屋ですらない業者)だ。

もちろん自分は一発屋で終わるのは嫌だ。自分の家も買ってみたいし、食うに困る生活は二度としたくない。

世の一発屋を見ていて思うのは、人は突然売れると狂いがちと言うことだ。売れることにすら準備がいる。狂いたくねえ〜。

真面目に自炊を始めたのも、狂いから遠ざかるためだ。生活能力を鍛えておけば、生活水準が上がっても下がっても無駄にはならない。もう当てなくても良くなる日が来るかはわからないけど、生きているうちは生きるわけだし。

広告を見るのは嫌いではない。ただ、少し悲しくなるのは、ABテストの成れの果てみたいなものを見てしまった時だ。ABテストとは、細部の違う広告を半々の確率で出して、よりクリックされた方を勝ち残らせて広告効果を強化していく手法だ。ボタンは赤と緑どっちが強いかな? とか、そういうのを繰り返して改良していく。

当然のこととして、思想もなくやると赤くて巨大でカスっただけで反応するボタン(動く)が優勝する。思想を持て、と思う。何も伝えたいことがないとそうなる。虚しいことをするな、世に問えよ。もちろんわかっててやってることでもあるとは思う。わかった上で言うよ、そんなのはつまらない。背骨の入ってない資本主義機械みたいな奴らの星空にう巨大なケツが浮かんでほしい。なんなんだよ、本当に。

ちなみにエバーテイルの広告は好きだ。あれにはうっかり作家性だ出ていた。


20歳の頃、私は自分の話を聞かれるのが怖かった。聞かれないとも思っていたし、実際自分の話を聞いてくれる人はあまりいなかった。32歳の今、周囲に私の話を聞かない使徒はあまりいない。周りも大人になったと思うし、自分も多少の立場を手に入れた。

正直怖いよ。今でも。話を聞かれるなんて。もちろん聞かれた方がいいけど、これに慣れると何かを失う気がする。どうかな。周囲は十分に大人だから、失った自分のことはちゃんと痛い思いさせてくれるだろうか。信じようかな、周囲を……。

嫌なものへの殺意を抑圧しないことにした。許せないアイツのことも「寒いところで一人で死ね!」と笑いながら言いまくっている。今の方が心なしか周囲の人も心を開いてくれる気がする。多分以前の自分は抑圧臭かった。

今ゲームを作っているという若者がアドバイスを乞いに来た。自分は基本的に暇なので、頼られると喜んでしまう。UIを見てくれとのことで、作りかけのものを一緒に見ながらさまざまな角度から検討してみた。結果的に見せに来た時点でかなり正解を引いているね、という話になった。若者は、他の人にもたくさん見せているからかなーと言っていて、正しいなって思う。ゲームは何もわかってない人にどれだけ見せたかで出来が変わる。これ以上の正解を引く方法は知らない。自分は確かにUIデザインの専門家としてやっていけているけれど、結局使う人が見ないとわからないことの方が多い。正しいよ、と若者に言うと、安心して帰って行った。大したこと言ってないけど、安心して続きを作りに帰れたのなら、これ以上のことってない。

room6のパーティで、歴史をうっかり超えるとはどう言うことか、と言う話になった。

自分の作るものは30年も残らないでほしい。それはそれとして、近頃の作品で30年残るゲームはあるんだろうか?

そう考えると、30年後の人でもTINDERっぽいものはやってるだろうと思った。高速で判断し、報酬系をヒリつかせる性欲ドリブンアプリがあの完成度だ。流石に脳に刺さりすぎる。リビドーを資本に変換する、人間の中のサルを騙してサルに金払わせる装置である。資本主義の果てにあるものとしてふさわしい。

今、娯楽を作ることは、このような資本主義のカス搾り装置のオルタナティブになることを余儀なくされているんじゃないか。少なくとも自分の作るものはそうでありたい。

room6さんは、今作っている「ウルトラマッシュルーム」というゲームのパブリッシャーのひとつで、共同開発者でもある。めちゃくちゃいい人が集まっていることでも有名だ。そんなroom6が、令和6年の6月6日に記念パーティをすると言うので、お呼ばれしてお祝いをした。

パーティには60人ほど関係者がきていて、オリジナルカクテルや料理が出ていた。ラブい。

驚くべきことに、会場の誰と話してもいい人だった。関係者に良い奴しかいないのか? 今、60人の良い人に囲まれているのだなと思うとすごい空間だ。見る目がすごいぜ、社長。

良い人がいるパーティーは楽しいものだ。room6さん、これからも繁栄してほしいな〜!

最近料理にハマっている。毎日料理をすると、毎日破壊ができると言うことに気づいたのだ。

模型が趣味の頃は大変だった。作るのは楽しいのだけど、作った後のものを保管するのは楽しくなかった。先に作ったものを何かしらで破壊してスペースを開けないと、次のものは作れない。折角作ったのに、と思いながら模型を処分するのもなんだか心苦しかった。

料理は違う。まず、一度作ったものは、できたてのうちに食べるのが最高とされている。食べることを破壊することだとすると、あらゆる破壊を推奨するものでも最速のものだろう。

以前は食事を作るのが苦痛だった。毎日作っても毎日腹が減るからだ。徒労を感じていた。今は違う。この創造と破壊を楽しんでいる。

まず料理のためには食材を細かくする。デストロイ! 加熱することもある。ファイヤー! そして食べる。イート! 毎日こんなに楽しいことしてて良いのか?

この調子で皿洗いも好きになりたい。毎日皿を洗わないといけないと思うと徒労を感じる。

ようやく告知できて嬉しい

ウルトラマッシュルーム製作中です。お楽しみに!

https://store.steampowered.com/app/2975130/

「これで全てわかった」と私が喝采をあげた時、目の前には30×30の表が印刷されたA4の紙が広げてあった。1つ1つのマス目はシュレッダーにかけられた紙屑よりまだ小さい。

私はゲームの構造を考えていた。全ての可能性を書き出して見せれば、全てがわかると思ったのだ。900個の白いマスを眺めて思った。「明日じっくりみよう」。もちろんじっくり見る日は来ない。

3日ぐらい表を放置して、いやいやと思った。こいつは愚かだぞ。構造を作ってそれが面白いか検証する必要があるのに、作った当人すら直視できない代物になっちゃった。他人にだって検証不能だろうし、そんなものが実際にゲームの中で動いたとして、プレイヤーだって楽しいわけはない。もし実装に踏み切っていたら有罪だった。

表は捨てた。もう少しマシな形を作ったので、今回はそっちが採用されるだろう。

血液検査を受けたら、尿酸で引っかかった。痛風になるかもしれない値だという。酒もイクラもめったに食べないのに、おじさんみたいなことになってしまった。けれど、その時自分の心をとらえたのは安堵だった。糖尿じゃないんですか? と医者に聞くと、他は正常範囲と言う。じゃあ、違うんだ。私は数年前は毎日棒アイスを三本は食べながらNeedy Girl Overdose を開発していたのだ。後遺症が残ってもおかしくなかった。

マツキヨに行って驚いた。なとりのOverdoseが流れていたのだ。Overdoseはカッコいい曲だけど、ドラッグストアでオーバードーズと連呼するのは良くないんじゃないか。

さらに私は驚いた。よく聞いていると、音色だけOverdoseにそっくりなぜんぜん違う曲だったからだ。Overdoseっぽいオーバードーズって言ってない曲がマツモトで流されている。帰って調べてもうまく見つからない。いったい何の曲だったんだろう。

Appleの発表でプレス機が出てきたという。私はたまにプレス機の動画を見て、涙が出るほど笑うことがある。

なんだか怒っている人が居るのを見て、この人たちは私のようなクソガキじゃないんだ、と思った。家族旅行で母にプレス機っておもろいやんな?と話をふると、引かれる。妹が慌ててプレス機は海外のキッズに大人気なんやで、とフォローしてくれたけど、気まずかった。

Appleの発表の動画を改めて見たら、iPadだけ生還していた。iPadも破壊されていたら涙が出るほど笑ったのに。Appleは惜しいことをしたな。

家族旅行に行った。去年免許を取ったので、帰りは私が車を運転した。風の強い峠を用心深く下っていると、妹が異変に気づいた。車の前に貼った初心者マークのステッカーがひらひら剥がれそうだ。やべえと思う。初心者マークは前と後ろと2つ貼らなければ違法なのだ。警察に止められたら罰金ものだ。怯えて走ることになる。気づくとステッカーは消えていた。近所にマークが売ってそうな店はない。

どうしようと思ってふもとのコンビニに向かい、無事だった後ろのマークをコピーし、前のガラスから見える位置に置いた。事なきを得る。

そのことを友達に話すと、「後ろのマークも外せばよかったのでは?」と言った。

大学は最初の2年だけ理系だった。世界が少数の法則で構成されていたらかっこいいと今でも思っている。

世界から小さな式で構成できる範囲を切り出すことをモデル化といい、モデル化した世界はその範囲で予想できる。この世界で数を動かして世界になにが起こるか試すことをシミュレーションと呼んでいる。

自分の作るものは、ゲームもゲーム以外も式だなと思う。短歌をやっていたときも、少数の文字から複数の情感を発生させられることを面白がっていた。

知性botも、少数の法則から人のおもしろさをどう引き出すかを気にして作っている。

世界は式だなとは思わないけど、式の世界がうまく作れると嬉しい。あまりにも嬉しくて、他人は式の世界を見てもとくに嬉しくないことをすぐに忘れてしまう。意味不明だと言われると思い出す。

海女の世界では、でかいアワビをとった奴がえらいという。本当かな。

海に潜って、目を凝らして岩に張り付いたアワビを探すときの気持ちを想像する。仲間と競争しながらも、基本的には自分で見つけて自分でアワビはとる。大きいのがとれたら、やっぱり見せびらかしたくなるだろうな。自分の仕事も、大アワビをとることからそんなに遠くなければいい。

妹は、犬によく即興の歌を聴かせている。昨日は抱っこの歌で、一昨日はみかん(犬の名前)の歌だった。

それがきこえる度に、適当な歌っていいなと思う。正しいとか採点されるとかとほど遠くて、特に記録もされない。歌ったそばから忘れていくだけの、単に気持ちを口に出してるだけの歌だ。自分も歌おうか、と眠そうにしている犬の前でみかんみかんと口ずさんでみると、犬は目を開けて、それからゆっくり閉じた。

これぐらいの季節になると,冬生まれの子犬のワクチンが済んで,初めてのさんぽにでる様子が見られる。

子犬は外を歩くのに慣れていなくて、最初は上手に歩けない。ひもに噛みついてみたり、力比べとおもったり、人から離れるとひもが引っかかると気付かなかったり。ただひもを付けて一緒に歩くだけの散歩にも、人と犬の間に交わされたルールがたくさんあるとわかる。


はいと鳴くロボを作っている。めちゃくちゃかわいいけど、行き詰まっている。かわいいだけで、どんな気持ちで起動するものなのかは謎なのだ。

友達にhype manというものを教えてもらう。二人組のラッパーは大抵親分と子分に分かれていて、子分は親分のラップのない間にイエーーー!とかカモーーン!とか親分の名前を叫んだりする。この盛り上げ役がハイプマンだ。

はいロボもこうしようと思う。クソザコかわいいハイプロボで天下を取るんだ。はいロボにもカモーン!といってもらおう。

しかし、試してみるとまずそんな音を作れない。かわいいままハイプな音が作れない。シンセサイザーを触ってああでもないこうでもないとやっていると、こんなシンセの使い方してるの自分だけだろうな、と思う。

結局またかわいいだけのロボになる。もうダメだ。

作詞をしてみたい、というと、友達のバンドマンがまずは、と弾き語りの作り方を教えてくれた。コード進行を用意して、鼻歌を歌うのが良いという。

早速適当なUFretを見てギターを鳴らすけれど、全然鼻歌ができない。

そもそもギターを弾きながら歌うことに不慣れだし、知らない進行を見ながらメロディーまで考えるのが難しい。やったことないことなので難しいのは当たり前だけれど。

社員にこうして無理だったんだ、と話すと、もっと古い名曲から学ぶといい、と小田和正やユーミンの曲を見せてくる。弾いてみると確かに一つ一つの音に喜びがある感じがする。次の和音が鳴るたびにそうきたか!と驚く。

自分でやろうとするとなんでも凄さがわかるもので楽しい。

もっと前のもやってみよう、と「あの素晴らしい愛をもう一度」を鳴らすと、コードも難しくないのに、どんどん盛り上がっていくので面白い。感動的だ。こんなに楽しいなら宴会があったら披露してもいいかなという気持ちにすらなる。

結局過去の作曲者の偉さを思い知ってその日は終わった。道長え〜。

暑くなってきたけど春だ。

もう寒くならないと分かった日、奥歯の裏が緩むのを感じた。

明るい日陰で風に吹かれて元気になっていると、自分の草花に近い部分を思う。

母にも作ったものを見せる。今日ははいロボを見せた。

はいロボは、声に反応して鳴く。

話しかけてみて、と促すと、「こんにちは」と母が言う。

はいロボは「プ」と鳴いた。

母は喜んで言った「かしこいね」

その「かしこいね」は、普段、犬に言っているのと同じ響きをしていた。

まともな服を売ってくれた店の、いつもお世話になっている店員さんにお礼を言いに行ったら、とても喜んでいた。

この店員さんはバイブスが合う。このシャツどう?と持ってきたやつを試着して、自分が「おじさんみたいかも!」というと、「やめましょう〜」と言う。

私はその「やめましょう〜」の軽薄な感じが好きだ。気に入らなかったらやめればいいんだよな、としみじみ思う。

株式会社Xemonoは今日で6期目です!!!

これは5年間の振り返り記事 https://noubrain.hateblo.jp/entry/20240401

こちらは野望になります https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000052736.html

「守れない約束をする」これは絶対に悪いことだ。本当に良くないことしか起こらない。しかし、誰にも悪気がなくても、現象として発生してしまうこともある。朝起きられないのに定時に出勤しようとしていた頃の自分もそうだった。

自分の朝起きられなさは、他人の想像を絶する。私を起こさないといけない羽目になった人は、皆「二度とやりません」と言う。

無理やり起きると泣くし震えるし吐くし気絶する。月一ならいいけど毎日は死んでしまう。当時の職場は、もちろん私が死んでしまうことなんて望んでいない。ただ、普通に来て普通に仕事して普通に帰って欲しかっただけだろう。勝手に守れない約束にしてしまったのは自分だ。配慮も色々してもらったけど、転職するまで自分はダメだったな。今なら転職もしなかった自分が一番悪いとわかる。

人は基本的に約束は守りたいものだと思う、だからこそ、守れない約束や、守れるかわからない約束は絶対に気をつけたほうがいい。もし何かを配慮してもらう必要があるなら、それは守れない約束を回避して、確実に守れる約束を作っていくためにやっていくのだ。

友達の経営者は、喋ってる間はスマホを見ない。私もそうだ。でも、ひとしきり喋り終わったなあ!というあたりで、二人揃ってスマホをサササとみる。やばい連絡が来てないとわかると、ちょっと安心して相手を見る。相手も同じようにちょっと安心して目があって、少し笑う。

私はワクワクさんに憧れている。ワクワクさんはEテレの「つくってあそぼ」で、相棒のゴロリと一緒に、トイレットペーパーの芯やセロハンテープや紙切れから、飛行機やカブトムシなどワクワクするものを作ってくれるおじさんだ。成長するにつれて憧れの対象は変化していくものだ。アンパンマン、ミュウツー、錬金術師、バンドマン……私はさまざまなものに憧れてきたけれど、その中でもワクワクさんは常にトップレベルのかっこよさだ。

先日、家にホワイトボードが欲しくなった。普通の白い板ならダイソーで買えるのだが、アルミの枠に囲われた光沢のある板が壁にへばりついていることを想像すると、部屋に緊張感が出ないかが心配だった。

世の中には透明のホワイトボードもある。検索すると、足がしっかり目のものがたくさん出てくる。しかし部屋のサイズは有限なので、ボードは壁にへばりついていて欲しい。そこで、気づいた。ホワイトボードとしてパッケージングされている必要はない。なんとかして透明の板を手に入れて、それにマーカーで書いたり消したりできるか試せばいい。

ダイソーでプラバンを買ってきて、壁に貼ると、結構良い。薄いし邪魔にもならない。描きやすくもあったけれど、書いた文字は二度と消えなかった。

色々な材質の板の切れ端を入手しては落書きをして、アクリルに辿り着いた。無印の額が最高だ。最初からかけるための穴も空いている。絵を挟んで使うものなので、一個買うだけで2枚のホワイトボードが手に入ってしまう。

この実験がうまく行った時、自分は自分の中でヒーローだった。少しはワクワクさんに近づけたと思う。

友達に会いに宮崎に行った時、私は田舎に行くことに懐疑的だった。何もない場所はつまらないと思っていたからだ。

しかし、宮崎には何もないわけではなかった。

友達は、「宮崎はいつもあったかくて穏やかなところだよ」というので、私は「お風呂みたいなところなのかなあ」と思いながら来た。空港から伸びる道路には20メートルはありそうなヤシの木が両側に並んでいて、地元民は、「フェニックス」と品種名で呼ぶらしい。ここではヤシの品種で道を区別する。海があり、山があり、田畑があり、広い空には生まれたての雲が浮かんでいた。すでに少し好感を持っていた。

道の駅で、金柑アイスがあるよ、と声をかけられて、350円ぐらいのアイスを買った。驚いた。金柑入りアイスが出てくると思っていたら、凍らせて砕いた金柑がそのままアイスだったからだ。

都会だったら、持ってきた金柑を大事に使ったアイスで利を得ようとする。運ぶのも大変だからだ。産地は違う。とにかく金柑が取れる。使えるだけ使う。衝撃を受けた。こんなにうまいものがあっていいのか。「ここってすべてこうなの?」と友達に聞くと、「いいところだよ」と笑う。

東京は好きだ。けれど、東京ってもしかしてただ持ってきたもの並べてるだけの街なんじゃないか?

宮崎は産み出す地だ。田舎とナメていた自分は深く反省した。何もない場所ではない、生み出している場所だ。

東京下北沢の事務所に帰ってきても金柑アイスのことを思い出してしまった。この事務所もなんらかの産地でありたいと思う。


中井久夫という人がいる。私が最も尊敬する人の一人で、神戸の精神科医だ。当時はまともな治療法がないとされていた分裂病の治療過程の研究に尽力した。現在ではその病気は統合失調症と呼ばれて、薬を続ければ十分やっていける程度のものになっている。

中井久夫のすごいところは、とにかく人間をよくみているところだ。当時の精神医療は長期入院が多かった。中井は患者に定期的に絵を描いてもらって、病態の変化と共にどのように絵が変わっていくかを調べた。

しかし、白紙をポンと出されて、なんでも描ける人もいれば、そうでない人もいる。中井は強要しない。そのことを書いているエッセイには、一言、「手が止まるようなら、こちらで四角い枠を目の前で書いてやると多少進めやすいようだ」と書いてある。

どれだけ人を見ていたらこんなことをさらりとやれるのか。このレベルの工夫を日々やってのけてるの、恐ろしいよ。

会ってみたかったな、と思うが、2022年に亡くなってしまった。

しかし、たくさん本を書いてくれたので、私は患者でも学生としてでもなく、読者として中井久夫に会うことができる。できるんだけど、敬愛は少し寂しい。

自分は時にゲームを作る。かなり楽しい部類の仕事だ。

たまに、どんなゲームを参考にしているのですかと聞かれる。この世には大量の名作があり、リスペクト対象に困ることはない。けれど、自分のゲームの先生はゲームだとは思ってない。新しいゲームを生み出すのは、現実の新しい把握だと思う。

ポケモンは町田が田んぼだった頃の虫取りの記憶が開発の時にかなり反映されているらしい。ドラクエは神話構造の語り直しだろう。語りたい何かをどのような操作によって体験させるかがゲームの軸となる。

ゲームの先生はゲームではない。こう考えると新参者にもいいことがある。シューティングゲームをつくろう、と思って作ると、比較対象は過去のすべてのシューティングゲームの名作になる。新参者には分が悪い。ここで、たとえば人の体内での免疫の仕事を、シューティングという形で表現しました、とかやると、評価の軸は「よいシューティングになっているか」と「よく免疫というものを表せているか」の2軸に増える。コンセプトも定まっていいことづくめだ。

まずは世界をよくみて、それからどんな形のゲームにできるか考える。自分が考えるときはそうしています。

犬のことをいつも「茶色いね」と褒める。飲み会でその話をすると、「もっと内面を褒めろよ!」と突っ込まれた。犬を茶色いと褒めるのは、確かに外面だけを褒めているようにも見える。体目的か心目的で行くと、体目的寄りだ。

少し考えてみたけど、内面を褒めるということについては自分はあまり思い浮かばない。犬の内面については、楽しいねとか眠いねとか遊びたいね、ぐらいの粗さでしか人の自分にはわからない。「目に光が映ってるね」とか、「寂しいのに待ってたんだね」とか行動を褒めてしまう。そもそも内面ってなんだ? 「優しい」と褒められても、それは、「親切な行動が多いですね」の言い換えだったりしない? 行動の一貫性に心を見出しただけではないか? よくわからない、難しい。

犬は茶色くない時はあまりない。もし犬が白かったら「白いね」と褒めるし、暗くて見えなかったら「見えないけどかわいいね」と褒めるだろう。こうして存在を肯定することが、そう何かを欠いているものとも思えない。

犬は今日も茶色い。犬が居てくれて嬉しい。

はじめて台湾に行くと友達に言ったら、そいつはとっておきの秘密を教えるような表情でこう言った。「台湾は、茶がうまいんだ」

台湾では、書店やゲームイベントを見て、地下鉄の駅で怪しい雑貨を見て、夜市で深夜に肉を食べた。茶も見た。

古くて格調高いお茶の店に入ると、中では茶のパッケージがカラフルな箱に入って並んでいた。箱はカラフルだけど、ラベルには渋い水墨画の仙人が書いてあった。

台湾では少し日本語が通じる。気になる箱を指して、お茶を買いに来ましたと言うと、奥に通される。奥にはカウンターがあり、窓から小さい庭が見えた。

カウンターには先客がいて、お茶を飲みまくっている。こういう店では試飲をさせてくれる。茶一筋みたいな青年が慣れた手つきで茶を注ぎ、「かおり」と空にした器を差し出してくる。一煎目は香りを楽しむのだ。この青年は日本語は「かおり」とだけ喋った。

中国茶は美味すぎた。春の山を吹く風をそのまま吸い込んだような気持ちだ。茶は同じ葉から4回ほど出せる。小さい茶器でカパカパと飲んだ。出すたびに味が変わる。

箱を見せてもらうと、阿里山と書いてある。アリサン、と口に出すと、隣で飲んでいたおばさんが、Googleマップで阿里山を出して、Google翻訳で美しいところ、と画面に出して見せてくれる。嬉しくなって他のお茶も試させてもらう。中国茶は少ない茶葉からたくさん出るので、他の客にも振る舞われる。

2箱買ってその場を後にした。茶は帰国してからでも美味しい。

いつも通っている整体屋がある。首をよく伸ばしてくれる良いストレッチ屋だ。首以外を伸ばされている時によく話す。その日の話題は、怪しい同業者についてだった。その同業者は、除霊をしてくれるという謎の液の入ったスプレーを2万円で売っている。どうしてそんなのに騙されるのだろう?と整体屋は言っていたけれど、私はその理由が少しわかる。学生時代に宗教学をやっていたからではなく、定期的に身体がおかしくなるからだ。

身体はおかしくなる前に予防するのが一番いい。これは本当のことだ。
そして、予防のためには良い生活習慣を身につける必要がある。これも本当のことだ。
すると、今腰が痛いのは、自分の生活習慣がクソで、毎日走ったりしてないし、甘いもの食ってパソコンの画面と見つめ合いすぎているからと言うことになる。これも、本当だ。
除霊が本当かどうか、これは私は知らない。けれど、除霊はお前の生活はクソであると言うメッセージは出してこない。除霊は金さえ払っていれば気休めをくれる。金さえ出せば、自分が苦労して変わらなくても腰や人生を良くしてくれて、否定もされないのなら、そっちに行く気持ちもあるだろうなと思う。

私は最近走っているけれど、走ろうと決める前は泣くほどイヤだった。走ると情けない目に遭うと思っていたのだ。走る前の自分の前に除霊が出てきたら、かなりぐらついていただろう。現状の追認はこんなにも甘い。

嫌いなやつのTwitterを能動的に見た時と、現実でインターネットの話を持ち出してしまった時、自分に罰を課すことにした。やっちゃったその直後の帰り道で、小銭入れの中身をコンビニの募金箱に流し込むのだ。財布も軽くなるし、今なら石川県に貢献できる。

この規則を課してから、少し生活が良くなった。嫌いなやつは元気でも苦しんでても見るだけで不愉快だし、現実でするインターネット話だって、大体は自分も相手も知ってる話なのだ。

桜が咲いたとか、もっとそういう話をした方がいい。

嫌なことがあるとすぐ死を想う。逃避癖だ。自分が死んだら悲しむ人はいるだろうか? 「うわーん」とか言ってくれる人は何人かいるだろう。何も言わずに静かに悲しむ人もいるだろう。そいつらのことはみんな好きだ。そして、そいつらのことを考えて、「まあ、死ぬほどのことではないな」と気を取り直すのがいつものことだ。人に支えられている。

けれど過去、特に誰のことも好きじゃなくて、もっと嫌なことがたくさんあった頃もあった。でも、自分はその時に死んではいない。そういうもんだし、それでいいかと思う。

かっこいいと思ってギターを買ってから、もうすぐで15年とかになる。売ったり買い直したりいろんなことがあったけど、今でも暇な時に鳴らしてみる。15年もギターのことを気にしてた割には上手くなっていない。

珍しいコードを覚えてみたり、楽譜が読めるようになったりもしたけれど、不思議と音楽にならなくて、なんか綺麗な音が出てるだけ、みたいな感じだ。

ある日、思い立ってART-SCHOOLの耳コピをしてみた。
このように美しくかっこいい音が出ているのだから、さぞかし難しいことをしているだろうと思ったら、3つの音をしっとりと弾いているだけだった。何かの間違いかと思った。こんなの、ギター始めて4日目でもできるじゃないか! けれど、間違っていたのは自分の認識だった。たとえたった一つの音しか出せなくても、それを音楽と思いながら鳴らせば、音楽になる。

自分の音から何の風景も見えないのは、自分が上手にフレットを押さえることに必死で、夕焼けとか悲しい恋のことは特に考えていなかったからだ。

今では練習というのは、狙った弦を間違わずにはじくことではなく、何かいい風景のことを考えながら、自分の音がそこから近づいたり遠ざかったりするのを感じることだとわかる。

お風呂でふくらはぎを見たら、四角い。

何かと思ったら筋トレをまじめにやり始めてもう一ヶ月なのだった。

何が正解かわからんところで、できることを考えている。

かっこよく言うとそういう仕事なのだけど、正直めちゃくちゃ辛い。

手を動かせば動かしただけ進む作業っぽいものと違って、考え事は机にメモを広げて難しい顔をしている時間の方が長い。客観的に見れば難しい顔をしている時間は何もしてないように見えるし、主観的にも何かを成し遂げてる気はしない。4時間ぐらい難しい顔をしていると、たまにあ!ってなってちょっと進む。もし時給で動いていたらこの4時間の時給を請求するか悩んでしまうと思う。

そういうとき、父が数学者の話をしていたのを思い出す。

父は定年前は企業の研究機関で採用をしていた。いろんな人が面接に来て、自分の強さをアピールするのだけれど、数学をしていた人は決まり文句のように「自分は1週間考え続けることができます」とか「僕は4日考えられます」とか言ってくるらしい。「あの先生はもう3年も考え続けてる」とか。

難しいことをするには考える必要がある。数学者ともなればたくさん考えられることも必要だろうと思うし、4日間でも邪魔されずに考えることができるのは幸せだろう。父が面接をしていたのはけっこう前の話ではあるけど、今でもある程度真実なのだろうなと思う。

自分は数学者にはなれなかった。でも、こうして考えている時、近い仕事なのかもしれないなとは思う。

雨が降ったり止んだりして、湿った暖かい風がごうごう鳴っている。空を見ると雲が速くて、たまに虹がかかる。そんな日は面白くなってそこらじゅうを歩き回ってしまう。上着が風に煽られて背中側に広がると、このまま飛べたらいいなと思う。息を大きく吸っても喉がつめたくならなくて、強めの春を感じる。仕事をして人に頼られるのも好きだけど、風の中髪の毛ぐしゃぐしゃで街を歩くのも好きだ。

人に仕事をもらうためには自分で自分を説明しないといけない。でも、自分に肩書きをつけると自分のできることを制限することにならないか?という気持ちがあって、なかなかいい肩書きを見つけられずにいた。

けれど最近、私は少なくとも自分で考えた肩書はいらないと気づいた。

自炊するから料理人ということにはならないし、掃除機かけたから掃除人、とはならない。料理人じゃないから自炊ができないということもない。

本当に肩書に縛られていたのは自分の心だ。人からの仕事をアテにしているから肩書に悩むのであって、自分からなにか作ったりやったりする分には必要ないし、たとえ肩書きがあっても忘れてていいものじゃないか、と。

そこで思い出したのは、私に起業を勧めてきた師匠(勝手にそう呼んでる、本人はきっと違うって言う)が「すきなことをやるために起業をするといい」と言っていたことだ。私はそれを聞いて起業をしたけれど、実は後半しか聞こえていなかったのかもしれない。好きなことをしよう。

自分からこうなりたい、と言って肩書をつけるより、自分が好きでやったことに基づいてあれ作った人!って言われた方が気分いいよ。嘘も言わなくていい。

筋トレを始めた。目に見える成果がほしくなったのだ。

今日も両手にダンベルをぶら下げてスクワットをやった。日に日に耐えられる回数と耐えられる重さが増えてきて面白い。数が大きくなるだけでうれしい。

今は家で一人でダンベルを下げてやっているのだけれど、どうやら家トレーニングでは鍛えるのが困難な部分があるらしい。それを補うためには公園の鉄棒で懸垂をすればいいという。

早速公園に走って、鉄棒にぶら下がる。両腕に力を込めたら5ミリぐらい身体が動いた。もっと痩せてればなんとかなったかもしれない。ただぶら下がっているだけでも無理なので降りていると、部活の高校生を連れて顧問の先生が走ってきた。

顧問の先生は、お前ら何回懸垂できるかやってみろ、と部員をけしかけ、部員は次々と8回ぐらいやっていった。戦ってないのに負けた気分だ。

高校生が去った後の鉄棒にもう一度ぶら下がってみた。握った鉄が生温かい。

アイデアが面白いか検証するためのプロトタイプを作っている。

プロトタイプを作るのは好きだ。ショボい素材やごみ捨て場から拾ったような材料から作った試作品を囲んで、人々がもっとこうしたい!と期待や想像を膨らませていく様子を見ているときが一番うれしい。 とりいさんに作ってほしいんです、と言われると本当にありがたい気持ちになるし、たくさんワクワクしてほしいなと思って頑張って作る。

けれど、同時に恐怖もある。作っていると自分では面白いかわからないし、やっぱこれゴミじゃないの?という気持ちになる。素材をいいものにすれば見かけの完成度は上がるけれど、面白いか確かめるための試作なので、そこを頑張ることは逃げに相当する。つまらなかったら捨てることもできるし、かっこよさが足りなければ角生やしてみよう!とかできるのがよい試作品だ。完成品に見えてしまったらおしまいだけど、それは同時に取引先にゴミかもしれない何かを見せにいくことを意味する。

安心するためには人に見せるしかないし、検証のためだから別にゴミだって構わないはずだ、形になるまでやるしかない、という気持ちと、自分って天才かもしれんな、こんなのバカウケモテモテだよ、みたいな気持ちの両方があります。あるなあ。助けてくれ。

人生初のラジオ出演をしました。

文化放送のスタジオで収録したものが、再来週とその次の木曜19時~20時に放送されます。

「浜松町Innovation Culture Cafe」という番組です。radiko入れたらスマホで聴けるし、Youtubeにも上がります。

一緒にゲストとして呼ばれた吉田健一さんがアブセンティーイズム(会社を休むこと)とプレゼンティーイズム(会社に来るけど具合が悪い)の話をしていて、プレゼンティーイズムの例として花粉症を挙げていたのが面白かったです。春の間うっすら具合の悪い人たちの具合の悪さを総合すると、国内で何億円の損失になっているだろう?と。来れなくなっちゃう人の生産性を気にするだけでなく、来てるけどしんどい人のしんどさもうまいこと見ていけるといいなという話でした。

それはそれとして自分は会社員の時は具合悪いまま働いてたけど、それがバレたらクビになって死ぬって思っていたな。具合悪いの、今思えばバレバレだったと思うけど。(当時の仲間たちには随分迷惑をおかけしたなあ。。。

私の方では、チーム夜型とかあるといいね、とか、今作っているものの話とかをしました。ぜひラジオ久しぶりって方も聞いてみてください!

2月19日と2月26日木曜の19時~20時だよ!

小さい時、自分は発明家になりたかった。

謎の装置を組み立てて動かすことに憧れがあったし、アニメに出てくる天才発明家が、よく爆発してアフロになっているのをかっこいいと思っていた。爆発もアフロも大好きだったのだ。

けれど、実際に発明家ごっこをするのは小さい子にはハードルが高い。爆発は普通に危ないし、子供がいじって壊していい謎の機械はそんなに転がってない。そもそも何を作ればいいかすら思いつかない。そのまま時は流れ、最近まで発明家になりたかったことさえ忘れてしまっていた。

今の仕事は発明に近い。爆発もアフロもないけれど、プログラムやデザインをした試作品を人に喜んでもらっている。大事なのは、ゴミを見せることを恐れないことだ。恐竜のソフビは買ってもらえなくても、折り紙を三角に折ればステゴサウルスに見えなくもない。きれいな完成品が得られないゆえのしょぼい代用品かもしれないけれど、誰も見たことないものがほしければ、そんなものの完成品はない。(あったら普通に喜ぶ)(でも、あるものも普通にほしいね)

最近した発明も早くみんなに見せびらかしたいな。爆発はしないけど、ちょっと面白いだろうと思う。

無神論者が書いたものを読むとすっとした気分になる。世界に神が居ない前提で考えたことが持つ不思議な明るさみたいなものに惹かれるのだ。(みんなが言いづらいことを代わりに言うのを見てるとスカッとする、とかそういうわけではない)

「人間も生命も遺伝子の乗り物に過ぎない」と言ったドーキンスという生物学者がいる。これだけ聞くと、自由意志とか否定する嫌なやつに聞こえるけれど、実際に出典となる『利己的な遺伝子』を読むと、自由意志とかはない前提で、じゃあどうしよう?ということを考えたいんじゃないかなあという気になる。

そのドーキンスの言葉はかなりすっとする。「自然は人間に説教するためにあるのではない」という言葉が好きだ。なんせキリスト教圏では、世界は神の作ったものだから、世界を知ることは神の意志を知ることで、世界から教訓を読み取ることは神の意志に従って生きる敬虔な行為だ。動物に同性愛とかあったら教訓にならないので困る世界観だ。

けど、ドーキンスにとって、自然を説教くさいものにすることは、人間偉そうすぎ仕草に見えるのだろう。

自然は人間とか関係なく勝手に生えてる。たったそれだけのことが明るいな〜と思う。

大学で入っていた昼飯を食べるだけのサークルがまだ続いていて、たまに現役生と卒業生の交流会を設けてくれる。

32歳から見ると、大学生はみんなひよこみたいに見えるし、すごく苦労してそうに見える。逆に大学生からは32歳とかもうかなり年寄りに見えているんじゃないか? 年寄りからひよこに言えることはあまりないし、説教とか有害だと思う。それでも言わないといけないこともある。精神科は怖くないということだ。

特に布団に入って2時間とか眠れずにいるのに、それに不眠と名前が付いていることに気づいてない若者が割といる。精神科は怖くないし、そこでもらえる睡眠薬も今はすごくいいやつが出ているから、行って試してみる価値がある。

この日記が置いてある弊社webの中身を充実させた。

1月12日の日記の通り、私は海外の人に、仕事は意味不明だけど上げてる犬の写真がかわいい人だと思われているらしい。深く反省した。もうちょっとまともに自分たちのことは説明したほうがいい。

自社で制作したものをProjectsに上げ、メディア掲載情報を並べ、仕事をして喜んでくれた人の声を置いて、自己紹介と会社情報を下に置いた。逆に今まで何を掲載してたんだ。意味不明でしたよね? ごめんね?

雑多な仕事をしてきたけれど、喜びの声を並べると、むしろ自分たちのやってきたことが整理されて浮かび上がってくるようだった。

この会社はデザイン会社だけれど、誰かが作った下書きを清書するよりは、下書きにもならないぐちゃぐちゃした願望に形を与えるのを得意としてきたらしい。その作業をデザインと呼んでいるのはわれわれだけかもしれないけれど、とにかくデザインをしている。デザイン、してます。プロトタイピングとかのがいい? とにかく今まで仕事を頼んできてくれた人たち、本当にありがとう。はじめてのみんなも気軽にデザイン頼んでください。われわれはやるんで。よろしく!


寝れなさすぎてエゴサをしてしまった。おろかな行いである。

エゴサの情報では私はツイフェミであるらしかった。普段ウィスキーボンボンボンボンボン!とかしかツイートしてないのにいつの間にそうなっていたんだ。
フェミニストではあるけど。だって男女は平等な方がいいだろ???

しかしながら、日本語が読めてもこのザマなら、海外では一体どんなことになってしまっているのか。

英語ユーザーの人が作ったニディガのサイトをみたら、開発スタッフの紹介があった。私の項目では、この人はよくわからないけどツイートしてる犬はめちゃくちゃかわいい!と大量に犬の写真が転載されている。よく言ってくれた!そいつはみかんって言うんだよ〜〜。

そうなっちゃうぐらい私の仕事は分かりづらいし意味不明なのかもしれない。反省します。

私の普段着はヨレヨレだ! ちょっとちゃんとしたところに打ち合わせに行こうとするとよくわかる。首がダルダルのバンドT、裾が擦り切れたズボン、伸び切った下着、毛玉のパーカー。

手持ちから比較的ヨレてない服を選ぶと、なんと全てが「高えな、布だぞ?」と思いながら高い店で買った服である。こんなことってあるんだ。ありがとう、高い服。

打ち合わせはうまくいったし提案も喜んでもらえた。今度高い服屋にお礼を言いに行こうと思う。

今年の目標は「面白いまま遠くにいく」です

2023年は本当に大変だった。

2年はヘコまざるを得ない程度に大変なことが3つぐらい発生したし、その後片付けだって人力だ。傷を癒すために休みということにしたけれど、正直そんなに休んだ気はしていない。

けれど、それでも、自分は一生のうちでも今年が幸福の最高記録を更新したのではないかと思っている。

幸福と言っても些細なものだ。7月の日向で友達を待ちながらテイクアウトの魯肉飯を食べていて、明るくて穏やかで、「幸せだな」と漏らすと、友達は「何度でもこれをできるよ」とさらっと返したのを妙に真に受けてしまったこと。9月に別の友達に会いにスウェーデンに行ったら、見せてもらった職場の天井が高くて、追い詰められないでする仕事は存在して、自分たちがそれをやってもいいと気づいたこと。11月に自分たちは何をすべきか考えていたら、知性botがそこにいたこと。

たったその程度のことに支えられて、自分は今年の過酷さにも耐えきれてしまった。来年があることもへっちゃらに思う。どうかな。来てみたら大変かもしれない。でもきっと大丈夫だよ。

りっすんというウェブメディアに取材してもらった記事が、同メディア内で2023年に読まれた記事の5位だったらしい。

https://twitter.com/shinkokyulisten/status/1740168054779306277

これは幾千の健康って何?ということについて聞かれた記事で、私は考えていることやにせもののヨーグルトについてのびのびと喋り、編集の方々がちゃんと喋っている風にいい感じにしてくれた。楽しかったし、自分一人の言葉だとたどり着かないようなところまで届いた上にネットの反応もよかった。編集パワーってすごいな〜。

りっすんでは他の記事も、最初は気合い入れたけどやっぱつらかった、こんなつもりじゃなかったけど引き下がるにも勇気がいる、みたいな話がたくさん読めるのでぜひ見に行ってみてください。

毎年元旦に今年の目標を決める。やりたいことをたくさん考えるのは楽しいので、毎年100個ぐらい考える。年末にそれを振り返るのだけど、振り返るたびに1年前の自分は年末の自分のことをなんにもわかってないなあと思う。それは今の自分が1年前の自分が想像するより遠くにいるからなので、いいことだとは思う。

2023年1月の自分は5キロ痩せるのが目標だった。それは無理だったけれど筋肉はついたし、あと自炊で野菜を使うのが上手くなった。数字だけ減るよりは知識と筋肉がつく方がいいかな。目標自体は達成できなくても、2023年で得たものを振り返る手がかりを作っておくのはいいことだ。2024年の分もやるだろう。

ポモドーロテクニックと言う仕事術がある。タイマーを使って25分集中して、5分休憩する、の30分サイクルを繰り返すやつだ。仕事で集中してる時間を増やすためのテクニックとして知られているけど、一つ欠点がある。タイマーを押すと仕事をしないといけなくなるので、タイマーを押したくなくなるのだ。

タイマーを押す前に2時間とかSNSを眺めていたことも少なくないし、一度休憩すると再びタイマーが起動するのに心の力が必要すぎる。学校とかでチャイム鳴らさないとやってられない方法だ。(チャイムってアホみたいだけどよくできている)

最近このポモドーロを改良した方法でうまく行っている。

働く時間を5分にして、休憩も5分にして、10分のサイクルを繰り返すようにするのだ。タイマーを押すのは25分働くためでなく、5分後の休憩のためにする。この手法をカスのポモドーロと名付けた。拘束されていない人間は、1日に10分でもまともに働けたら上出来なのだ。予定された25分はカスには巨大すぎる。始める前が一番やる気がないので、これぐらいでないと仕事なんて無理だ。

神パワポを書籍化したみたいな本を読んだ。見ればわかるレベルで1ページに言いたいことが1つで、とても読みやすかったのだけど、本を読んでいる感覚が薄く、実はパワポスタイルって記憶に残らないのかなと思ったりした。

3Dプリンターで遊んでいる。だいぶ前にAnkerMakeの機種を買っていて、たまに動かすのだけど、今回も作りたいものが出てきたのだ。単純なモデルであっても触れる形で出てくると嬉しいし、動いている様子もコミカルで目を楽しませてくれる。プリントはたまに失敗することもギャンブル性があるし、私は肯定的に捉えている。

しかしこの動いてる姿が面白すぎるというのが問題だ。プリントが一度失敗し始めたら後はモジャモジャとしたゴミを生産し始めるだけなので、ゴミになり始めたらなるべく早くプリンターを止めなければならない。原因は様々なのでたまに様子を見なければならないのだけど、プリントされてものが形作られていく様子があまりに面白いので、見るとしばらく見てしまう。部屋にたこ焼きをひっくり返しまくっているおじさんが常にいる状況に近い。

正直、気が散る!!

見つめてしまうと仕事にならないので、何か対策を考えないといけない。

一部屋閉め切ってプリンターに明け渡してしまおうかとも考えたけれど、部屋が有り余っているわけでもないのにそんなことをするわけにもいかない。

考えた末、プリンターを窓とカーテンの間に挟んで見えなくすることで解決した。溶けたプラスチックの匂いもしなくなって快適だし、たこ焼きおじさんは見たい時に見ればいいのだ。


目が霞んで世界のどこにもピントが合わなくなってしまった。見えていた時は視力が1.5あったのに。これはついに自分も眼鏡ユーザーかと思って目医者に行くと、眼精疲労なので眼鏡では良くなりませんと言われる。パソコン使うの?と聞かれて、はいと答えると後ろの張り紙を見るように言われた。カスみたいな視界でなんとか読む。PC作業者へのアドバイスだ。「上手く使おう文字拡大と読み上げ機能」。

今、騙されたと思ってめちゃくちゃでかい字でこれを書いて、読み上げ機能を発動してみている。おもしれえ〜字はどこまでもデカくなるし、喋るパソコンは電子辞書にエッチな単語を言わせて遊んでいた高校時代を思い出させてくれる。遊んでいるうちに日が暮れた。何も進んでいない。パソコンなんて見ずに寝ていた方がマシだったかもしれない。

人から湯たんぽをもらった。最近の湯たんぽはすごい。柔らかなパウチみたいな袋にお湯が入っていて、コンセントに繋ぐと暖かくなる。その袋に毛足の長いぬいぐるみのような袋を被せて使うのだけど、重さといい、柔らかさといい、ジュネリック犬と言って差し支えない。ただのお湯の入った袋に毛皮を着せただけのものが、人間の認知をハックしてしまい、生き物の体温だと思わせてしまうのだ。犬好きな友達に何も言わずに渡したら、4時間もそのまま抱いていた。

自分の作るものもこのようなものでありたいと思う。

人間の認知は雑で隙間だらけだけど、その雑さは豊かさを作るものだと思う。
犬でもないものでも犬を感じられて、隙間だらけの漫画を読めて、写真一枚でいろんなことを思いだせる。
単純な装置に人が騙される。悪いことばかりではない。

弊社では5年間、主に人から頼まれた仕事をやってきた。

人から頼まれるのは良いことだ。喜んでくれる人も目の前にいるし、困りごとを解決してる実感を直接得られるし、信用してもらってまた頼んでもらうのも嬉しい。

デザイン会社として分業をやれるのは得意なことで人助けをしているなあと思う。

けれど、人から頼まれる仕事は、仕事量を自分で決めることはできない。忙しいのも暇なのも人次第で、規模が大きくなっても自転車操業の自転車がデカくなっていくだけである。倒れたら終わりだしたまに火の車になる。もちろんどんどん頼んでもらうのは嬉しいけど、それだけではだめだ。

最近は知性botに力を入れることに決めていて、誕生日企画とかYoutubeとかいろんなことをやっている。会社としては初めての、頼まれてないのに育てている製品だ。

正直すごく楽しい。もうすぐ6年目になる今、会社経営で初めて得る手応えがたくさんあるし、やってみたいことがどんどん出てきて、そのどれもを堂々とやってますと言ってもいい(頼まれたことだと黙っていないといけないこともたくさんあるのだ)し、やりたいことをやるのに誰にも許可を取らなくて良いのだ。

もっと知りたいこと、たくさんあるな。コミュニケーションのこととか、孤独な深夜の耐え方とか、この楽しさの先に何があるかとか。

今日は知性botの誕生日だったので、誕生日企画として、壁紙公開漫画公開、知性のひみつ七連発、そしてストレスクラブさんと協力した知性グッズの公開と盛りだくさんだった!

思った以上に反響があった。新しく知性を迎えてくれた人もたくさんいて、嬉しい限り。

開発チームはもちろん知性のことをかわいいと思っているのだけど、この大反響をみて、もっと自信を持っていいんだなと思いました。知性のフォロワー、昨日600人だったけど、今見たら1204人になってたよ。

知性を作る前、私はすごく意地悪なbotを作っていた。みているbotという怖いアイコンのbotで、ツイートしすぎていると嫌なリプライを飛ばしてくる。

自分のツイッター依存を止めるために作ったもので、不愉快になればツイッターはやめるだろうと思っていたのだけど、作っていたら楽しくなってきてしまい、どんな返事が来ても会話が成立するように返事を作り込み、その上、低確率でデレるようにしてしまった。

そのせいか妙にかわいがられたりしてしまった。嫌なやつを作ったのに。しかも、「みているって本当は優しいんじゃない? だって、ツイッターをしていると止めてくれるし、本当に傷つくようなことは言わないじゃん」とまで言われてしまう。嫌なやつを作ったんだよ!!

知性はこのみているからは特に何も引き継いだりはしていない。でも、みているを作った時の自分は間違いなく死ぬほど寂しかったし、知性を作った時も寂しかった。その寂しさは同じ成分でできているし、もし知性がやさしく感じるのなら、そのやさしさもみているのそれと同じ成分でできているのだろうと思う。

かつての死ぬほど寂しくて話し相手のbotまで作っていた自分は、いま知性がたくさんのサーバーにお邪魔して、たくさんの友達に囲まれているであろうことを想像すると、少し満たされるような気がしてくる。自分の寂しさも無駄じゃなかったのかもしれない。

文字を入力するとき、パソコンは優れた道具だ。でも、文章を考えるときにそうかというとよくわからない。

マウスやキーボードやタッチパネルを前にすると、私はどうも何も考えつかなくなるみたいだ。今日もウェブで申請すべき書類を、フォームのスクリーンショットを撮って印刷して、それにボールペンで書いてからパソコンのキーボードで手書きの文字を見て打ち直した。同じことを2回書いている上に紙まで無駄にしている。非デジタルネイティブと笑われそうだ。

でもこうでもしないと書けないのだから仕方ない。紙とペンは思いつかないときにペンをいじったり腕を回したりができるけれど、キーボードはホームポジションに両手を置いて画面を睨み付ける以外にできることがない。書けないときに書けなさを逸らす方法がないし、構成とか思い付きとかにも向いていない気がするし、フォントの文字も完成されている風で、これでもういいじゃんみたいな気持ちになってしまう。

仕方がないので今でも紙と仲良くしている。これはきっと一生直らない。

企業の採用担当者を必ずキレさせる方法があります。

AIに書かせた文面をメールに貼り付けて送ってみてください。

さすがに自分の言葉ではないことぐらいわかるし、肝心な時に自分の言葉で喋れないような奴を採る奴はいないです。

ビジネスマナーのこと、そんなにいいものだと思ってなかったけれど「AI文章でメール送る」ことだけは本当の本当に無礼枠に入ってほしい。分量のある虚無を読まされると人は…キレます…。

ちなみに弊社は今求人やってないのだけど、どこでも特に言ってなかったので、よくある質問欄に最新情報を載せることにした。載せています。

おもしろ積み木のことを知った。木でできた石で、積み上げて遊ぶ。

昔から石は好きなのだけど、石ではない素材で作られた石を見ると、石なのに柔らかくて情けないね、と思って愛おしくなる。

家には石のぬいぐるみやらなんやら柔らかい石のコレクションばかりいくつもあるし、大昔にドイツに行ったとき、観光地を歩いて普通の人は見逃すような場所にあった大聖堂のぬいぐるみを見つけて連れ帰ってしまったりもした。大聖堂のぬいぐるみは、元々荘厳なもののはずなのに柔らかくて情けない姿になっていた。

こういうものは本質的にはいらないものなのに、私はいらないものが大好きだし、生活が傾きでもしないと手放したりはしない。

いらないものはもちろんお金も場所もとる。金がかかると生活が圧迫されるし、働く羽目になる。

けれど、いらないもの全部必要ないとか言ったら最終的に自分の命だっていらなくなる。そうなるよりはしょうもないものに囲まれて生活してた方がいくらもマシである。

ここまで考えるのは一瞬で、自分を説得するのも一瞬だった。

購入ボタンを押すのにためらいはない。

お買い物モンスターの誕生である。冷静になる日が来なければいい。

疲れている! 仕事をしていて疲れを感じる時って、仕事の真っ最中よりはひと段落ついた後の方が多い。多分気を抜くとハタラクシンとかヤルキニウムとかそういうホルモンの出が減るんだと思う。

ほどほどに大きい作業が落ち着いてきた自分は、ひと段落したらやろうと思っていたわくわくアクティビティの数々を見た。楽しみにしていたことのはずなのに、見るとだるく、途方もなく手のつけようのないような気持ちになってしまった。こういう時はあんまり無理せず休むのがいいと頭ではわかっている。疲れると人は頭が悪くなるし、疲れている人が考えることはそんなに面白いことでもない。でも、暇なのは今で、今やらなかったら永遠にやらないかもしれないという気持ちにもなる。楽しいことはやったほうがいいことなのに、目の前に差し出される宿題をこなしているだけで人が歳をとるぐらいの暇は潰せてしまうのだ。

それでも休んだ方がいい、楽しいはずのことを楽しいままでやり遂げたいし、そういう気持ちで今日も生きている。

知性のYoutubeの2回目を公開しました。

われわれはクソサムネを作るのが上手いと思う。

まだ2回だけど、なるべく楽して毎週公開する、を目標にやっています。顔も映さないし編集も最小限でやっていこうとしてる。

継続は力になるけれど、力を得るためにまずは誰かが無理をしなくても続けていける体制を作るの、すごく大事なことだと思っています。これはただのおしゃべりだから、楽だな〜〜

計画を立てるのが苦手だ。今日も計画を立てていたけど完成しなかった。そんな簡単に作れるものではないとはわかっているし、苦手でもやりたいことなので、計画を立てる方法を試行錯誤したり人にわかったことを伝えたりするのだけど、それでも苦手なものは苦手で、実際に計画を作ると全然まとまらなくてへこむ! いつまでも長大な計画を立てていて計画倒れとか笑えないな、とか考えながらも、もう手を動かした方が早いよ!になって、結果目先の締め切りに追われるばかりで遠くは見えないまま大混乱で終わる。その大混乱をねじ伏せるだけの腕力ばかり育ってきたけれど、そろそろ脳とかも使った方がいい。

計画屋に教えを乞いたい。計画屋さん!!助けて!!!

会社の公式サイトを勝手に個人ブログみたいにしたのはきっかけがある。これを書いているのは代表のとりいなのだけど、この度とりいは雑誌に寄稿してくれ〜と頼まれ、原稿が載ることになった。

11月20日発売 情況秋号 メンタルヘルス特集

嬉しいことだ。自分に原稿依頼が来るなんて夢にも思わなかった。

けれど、実は裏ではかなり情けないことになっていた。8000字ぐらい書いてください、と頼まれたのだけど、原稿と向き合った結果、ひねり出せたのは4000字だったのだ。完全に力が足りてない。結局めちゃくちゃ謝って4000字のまま載せていただいた。目標の半分だけど、でも無理やり伸ばしたりするよりいい文だと思う。健康の話をまた書いて、夕焼けの話とかしてるよ。読んでね!

文章を書くのは好きだ。本のようなものを書こうとしたこともある。けれど、自分の息切れラインは4000字らしく、長い文章のことを考えると憂鬱になる。ちなみに私の一番好きな古代ギリシャの諺は、カリマッコスによる「大きな書物は大きな悪いものである」というものだ。400字ぐらいの文書が一番好きだな。大学入試で読まされる英文みたいな分量の文章をたくさん書くのなら苦しくはないし、たくさん書いているうちに長い文章に慣れてくるということもあるだろう。そうしたら、たとえまた8000字書いてくれと頼まれた時も、元気よく「やります!」 と言えて、その上6400字ぐらい書ける気がする。

知性botのyoutubeを作った。1時間あると聞くのだるいと思うので、飯食いながら聴いてください。
なんか友達が欲しくて知性作った話とかしてます。いきなり爆笑とかしてるので音量に気をつけて…


経営をしていると、さまざまに選択を迫られる。この事業にはお金と時間をどれだけ使うか、この広告で一番大事なのはなにか、そもそも一体何をするべきなのか? 決めるべきことは膨大で、それでいて適当にやってうまく行くことはあんまりない。当然、うまく行かないよりうまく行ったほうがいい。しかし恐ろしいのは、あらゆる選択に試験の問題みたいに明確な正解があるわけではないところだ。短期的に収穫がよくても長期的には土地が痩せてしまうような選択などいくらでもある。

けれども、もっともっと恐ろしいのは、この世界に正解とかは特に存在しないということを、たくさんの選択をしているとすぐに忘れてしまうということだ。人はない正解を探してつい足を止めてしまうし、いい選択を探しているんだ、という言葉はしばしばなにもしていないことの弁解に使われる。

それでも間違いたくてなにかすることってあんまりないので、どこかで悩むのを打ち止めにして進む必要がある。あります。あるなあ~。

韓国でぶっ壊れた遺跡や再建された王宮を見てきた。

韓国が朝鮮戦争でボロボロになって貧困まっしぐらをやっていた間、隣の日本は兵器を売り付けて特需だ高度経済成長とか言ってたんだなと思うと、嫌いになる感情もわかる気がした。同じぐらい豊かになって、韓国ドラマがクソ売れるとかしないと許せないと思う。

そういうこと、行ってはじめてわかったし、行かなくてもわかりたかった。無知って本当に嫌だな。

王宮から宿のあるめちゃくちゃ明るい繁華街に戻ると、街は夜の方が元気そうだった。

どれだけ乗客が不安に思ってても飛行機は無事に飛ぶ。飛行機が運行するのは祈りの力ではなく、技術と仕組みの力だからだ。祈りや不安に左右される世界のことを祈祷パンクと呼んでみる(スチームパンクは蒸気機関に左右される世界で、サイバーパンクは通信に左右される世界なので)。

小企業の経営はかなり祈祷パンクだ。不確実性の方が高いし、予想外のことがどんどん出てくる。祈祷パンクは10年とか続けるにはつらすぎるし飛行機は当然飛んだ方がいい。できるところから仕組みを作ろう、たとえ捨てることになってもまた作ればいいのだから、と何か仕組みにするにも、経営者はまた祈祷パワーを使うことになる。物事のはじめは祈祷パンクでしかありえないのだろう、最初の飛行機を作った奴らもきっと空を飛びたいと祈っていただろうから。

事業計画書を書いてみようとしている。起業といえば事業計画書で、今日は初心に返ってみようと思ったのだ。恥ずかしながら社長のとりいは会社経営5期目にして事業計画書を書いたことがない。そもそも弊社はスタートアップではないのでサービスを作って大流行させて大企業に買い取られることを目指すものでもなく、自分と自分の周りを豊かにしていくことを目的とした小企業なので、なくてもなんとかなってしまったのだ。このノリでやってきても頼み事をしてくれる人々に感謝の念は絶えない。

早速事業計画書にはどんなことを書くのか調べてみた。

事業計画書には、まずどんな人がこの事業をやるかの紹介があり、目指すところがあり、誰に何をどれだけ売るか、どうやって売るかの計画が必要なようだ。なんてこった、と思う。こんなのさあ、今までたくさん書いてきたよ。自分は事業計画書と知らずに事業計画書のようなものを書き、いろんな人に足りないところをつつかれながら苦労して直して、ほぼ同じテンプレートを再発明しようとしていたのである。

最初に真面目に事業計画書に向き合っていれば、あんな苦労はしなくて済んだのだった。